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京都駅を散策して

この前京都に用事があり京都駅に行きました。

友達と京都駅で落ち合う予定であり集合時間は決まっていたのですが、かねてから僕はふらっと京都に行くということをしたく、その日は何も考えずに家を出るタイミングを本能(セブンスセンシズ)に決めてもらいました。

そうしたら、案の定二時間近く集合時間より早く京都駅に着いてしまいました。

僕はお洒落等のサブカルに対する分野にも疎く基本的に家で過ごすタイプなので、いざ京都駅で時間を潰そうと、京都駅で自由気ままに散策をしようと思っても明確なイメージが沸きませんでした。

ふらっと京都に出かけるのはしたいことだったんですが、京都駅を散策するのは特にしたくもなく、京都駅に着いた途端にはやくもふらっと京都に出かけたことを後悔しようか悩みながら改札にICOCAをさっと差し出し一歩を踏み出しました。

手にあるのは好みの音楽が詰まってるiPodと白いケースのiPhoneとその日の用事を済ませるのに充分なほどのお金が入った財布。さてどういう物語がこれから始まるだろうかって思わせぶらしつつも特に何もなかったことを報告させていただきたいと思います。

まあまず思うことは人が想像以上に多いことですかね。梅田駅にも劣らず人を抱える京都駅は言わずもなく僕の胃袋を刺激してネガティヴな思いを誘発しました。吐き気にも負けず僕は必死に過ぎ去りゆく人々に見えない不満を投げつけました。

 

しかしどうしてこうも大規模な駅には人が常にいるのでしょうかね。

 

僕が思うに一定数人が存在するところには、”そこに存在することを生業としている人達”がいるのではないかと。

つまりは、その人達は普通の人生(母親の腹から産まれて時間が経るにつれて成長し自我を持つ)を過ごすことはなく、生まれ落ちた瞬間から記憶や人格を持つも人気スポットに存在することに疑いを持たない存在として生きる人達がいると僕は考えています。

その人達はもちろん老いることもなく、もはや人であると考えてもよいか定かではないが、動物学的にはヒトである彼らは、人気スポットに人気を絶やさないようにするべく、人気スポットを人気スポットたらしめるべく日々活動しているのである。

しかし、そう考えると自分以外の人間は案外こういう存在なのかもしれない。

ただ自分の友達として作りだされた人々、自分の先輩として作り出された人々、自分の彼女として作り出された人々

彼らには自分の考えなど存在しなく既に決められた発言言動思想を吐き出すだけである。

そう考えることもできなくはないかと、寝不足の中京都駅を散策していたら思いついてしまいました。もっとより深くこのことについて考察していたんですが、それはまた気が向いたら書きたいと思います。

それでは失礼します。